院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


ノリ・メ・タンゲレ」 神と人間の狭間で


 「ノリ・メ・タンゲレ」とは、ヨハネ伝二十章一〜十八節に説かれているキリスト復活後のエピソードである。ご存じのように、聖書には二人のマリアが登場する。キリストの母、聖母マリアと、キリストの弟子の一人であるマグダラのマリアである。聖母マリアが、神々しく清廉で慈愛に満ちた女性というイメージであるのとは対照的に、マグダラのマリアは、宗教上の理由からか、長く娼婦と見なされたり、あるいはそれに準ずる扱いを受け、世俗的で肉感的なイメージがある。宗教には門外漢である私のイメージはあくまで個人的なもので、適切な表現ではないかもしれない。ベストセラーになった小説「ダビンチ・コード」は、「マグダラのマリアはキリストの妻あるいは恋人で、キリストの子供を残し、その血統は今も続いている。」という仮説を元にしている。
そのマグダラのマリアがキリストが埋葬された場所を訪ねると、キリストの亡骸が消えていた。「だれかが私の主を奪い去った。」と嘆き悲しんでいると、「女よ、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか。」と後ろから尋ねられる。慟哭し顔を伏せながら応えていたマリアだったが、「マリアよ。」と声をかけられると、はっと振り返り、その声の主イエスに、「ラボニ(先生)!」と言って思わず手を伸ばす。するとイエスは、「わたしに触ってはいけない(ノリ・メ・タンゲレ)、わたしはまだ父のみもとに上ってないのだから。」と言われた。


この「ノリ・メ・タンゲレ」は多くの画家が主題に取り上げている。そのなかで私の好きな絵は、ティツィアーノの「ノリ・メ・タンゲレ」である(図1)。ティツィアーノはルネッサンス期のイタリアの画家でヴェネツィア派を代表する画家である。構図の力強さと華麗な色彩、特に赤いビロードの表現が見事だ。さて、この絵を見てみると、イエスは左足を後ろに引き、衣の裾をたくし上げ、わずかに腰を引いて、今まさに触れようとするマリアの手から体を離している。しかし彼の上体はマリアに被さるように傾いており、拒絶しつつも、マリアの驚愕の裡にある「刹那の喜びと深い悲しみ」に心を痛めるイエスの『愛』が劇的に描かれている。実はこの絵はX線解析にて、当初イエスはマリアから敢然と身を引いていたということが判明している。画家自身の描き換えによって現在の絵になったのだが、最初の構図は、ジョットの「ノリ・メ・タンゲレ」(図2)を参考にしたのではないかと言われている。


ジョット(ゴシック期のイタリアの画家)の絵は毅然とした態度でマリアの触れようとする手を逃れる。がしかしそれ故にイエスは厳粛で荘厳な印象を与える。個人的な感傷に拘泥されない『愛』。万人をすべからく愛する命運を担ったイエス、これから父のみもとに上ろうとするイエスの決意が鮮やかに描かれる。ルネッサンスに多大な影響を与えた画家・ジョットの傑作であるのは疑いようがないが、宙に浮いたマリアの指先、愛惜と哀惜が空をつかむ寂寞に、胸を痛めるのは私だけではあるまい。絵画、特に画集に載るほどの名画には、日和見的好意を寄せる似非美術評論家の私ではあるが、コレッジオ(ルネッサンスのイタリアの画家)の「ノリ・メ・タンゲレ」(図3) は好きになれない。


  確かに画面は端正で美しく、構図も完璧で、イエスとマリアのポーズも優雅で気品に満ちている。しかし、それ故に二人の間にあるべき魂の交流が偽善的で形式に囚われた空疎なものとして感じられ、心に届かない。ティツィアーノの絵が、名優が迫真の演技をしている舞台のクライマックスのシーンを、手持ちのカメラで切り取った現場写真とすれば、コレッジオの絵は完璧なライティングのもと、何度かポーズを取り直して仕上げたスタジオ写真のように思える。
 講演などを頼まれると、スライドの最後にこの三枚の絵を出して、ひととおり絵の説明をした後、小賢しい私は気の利いたことを言うつもりで次のようなアナロジーを展開する。

 病院に勤めていると、患者様やご家族の方から、医学・医療上の無理なお願いや依頼を受けることがありますよね。そんな時、皆様はどう対応していますか? 十分な説明をした後で、ジョット絵のように毅然として断りますか? 医療に従事するスタッフとして、威厳を保ち、断られた方もあっさりと諦めがつき、時間も短縮できていいのかもしれません。でもちょっと冷たい感じがしますね。あるいはコレッジオの絵のように端正で一点のかげりもなくマニュアル通り、相手の言い分も丁寧に聞いておき、慇懃にお断りするのでしょうか? 事務的で心が通わない気がしませんか? ティツィアーノの「ノリ・メ・タンゲレ」ではいかがでしょうか。相手の気持ちに十分心を砕き、紙一重で断りながら、なおも、どうにかしてあげたいのだけれど、、、という気持ちが相手方に十分伝わるような、そんな対応ができれば理想的ですね。

ティツィアーノがあえて描き直した真意、後世に名作と評価される真価は当然ながら、そんな安手のアナロジーで片づけられるものではない。駆け寄って肩を抱きたい衝動と、天に昇らねばならぬ定めとの狭間で、選ばれし者の苦悩と葛藤。背負うべき人類の罪はあまりに重く、人々の求める『愛』は尽きることがない。しかし愛弟子とはいえマリアの存在は儚く、永遠の時間が流れる自身には、この邂逅はあまりにも短い。
「ノリ・メ・タンゲレ」。その言葉はかくも切なく、わたしの心に響く。
 


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